フランスパンと横浜

安政5年(1858)徳川幕府によるアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの通商航海条約締結から、明治初年にかけて最も有力であったのがフランスパンであったが、これは薩摩等の倒幕勢力がイギリスと結んだのに対し、幕府がフランスの支援を受けたためであった。

イギリスパンがフランスパンに代わってパンの王座を占めるようになったのは明治10年以後のことであり、アメリカパンがイギリスパンに取って代わったのは欧州大戦以後のことに属する。

幕府がフランスに好意を持ち頼りにするようになったのは、品川東善寺の英国公使館焼打事件、馬関戦争の誘因となった生麦事件などで、英国政府から幕府に最後通牒が出された以後のことである。窮地に陥った幕府に対してフランスは大いに同情の意を表し、幕府を説いて謝罪使の派遣を行わせた。

徳川慶喜は幕府の政治組織を西欧風の内閣制度に改めたし、フランスから陸軍士官を招いて様式軍隊を造ったばかりではなく、日仏貿易振興のため600ドルの借款を契約した。
元治元年(1864)にはフランスは横須賀での幕府の横須賀製鉄所建設を支援し、その設計・技師の雇用・機械の輸入などを斡旋した。

慶応元年(1865)には横浜に仏語学校を創設して、多くの旗本の子弟を養成し、更にナポレオン砲などの兵器を送って幕府の武力強化をはかり、また、銀行家ラエールを日本の名誉領事として送り、財政復興に協力し、歩兵砲の訓練のためシアノアヌ・ブリユーネなど20人を招いた。

このような日仏中央政権の接近が東京と其の表玄関ともいうべき横浜にフランス人がいち早くやってきた所以であり、其の結果の当然の結果として先ずフランスパンが普及することになったのである。

横須賀製鉄所は後に国防の重大性から、幕府は横須賀造船所としての計画推進をフランスに委嘱し、フランスのロゼス公使が奔走の結果、慶応元年(1865)フランス本国から海軍造船技師フランソア・レオン・ウェルニーを団長とする60人の技術者が横須賀に来着して明治10年(1877)までの12年間建設作業が行われた。

この間外国人技術者のため、フランスパン給食が炊事部で行われ、其の指導者はフランス人の本物の製パン技術者であった。そして、横須賀海軍工厰へとなり本場仕込みのフランスパン技術は日本人の手に伝授された。昭和の初めアメリカよりイーストが輸入されるまでは、食パンはすべてビール醸造の際使用されるホップを使用して造られていた。

イギリス本国でビール会社の技師をやっていたイギリス人、ダブリュー・コーポランドが、居留地の一部であった横浜山手天沼にビールの醸造に良い湧泉を見つけ、明治5年(1872)にスプリング・ヴァレー・フリナリーと称するビール会社を設立した。

現在のキリンビールの前身である。ホップはそれまでは外国船により極少量輸入されていたが、このビール会社が出来てからは横浜のパン屋は容易に入手出来るようになり、
食パン技術の修得を希望する者が全国から集まり、食パンの発祥の地は横浜の感を呈するようになった。

ホップ種は元種・水種・中種・本ごねの4つの行程を経てパンの仕込みを行うもので、パン種造りは技術者の秘伝とされ居留地の外人は日本人に教えなかったので、
日本人経営の食パン屋は容易に出来なかった。横浜は開港以来、絹と茶の交易港として超スピードの発展振りを示し、外人居留地には、明治初年には4軒のパン屋が営業していた。

そのなかで英国人ロバート・クラークの経営するヨコハマベーカリーが最も盛大であった。現在のウチキパン株式会社の初代打木彦太郎が明治11年(1878)14歳で入店し、死にもの狂いで努力した結果、ついにクラークの片腕と頼まれる迄となり、明治21年(1888)クラーク引退後、その後を引き継ぎヨコハマベーカリー宇千喜商店として営業していたが、昭和25年に法人組織に改めた。

横須賀海軍港厰軍需部のフランスパンの技術を身につけたのは富田屋こと初代内海角蔵であり、明治22年(1889)現在の県庁前で開店した。2代目没後、廃業して今はない。

参考文献:
発行人 柴田米作 「日本のパン四百年史」(1956年)
著 者 鈴木巌、 「神奈川県のパン沿革史」(1949年)
編 者 淵野修、 「横浜今昔」(1957年)